心配をおかけしました。なんとかやってます。
「魔女の宅急便」のキキの心境と言ったらいいか。
「落ち込んだりもしたけれど、私は元気です」
落ち込むってのとはちょっと違ったか。ま、でも、大丈夫。
ジュビロの試合が見に行けないのはつらいけどね。
今日で店を辞めようと思った。仕事があまりにつらいからだ。最近の俺は頭がおかしい。一人で考え事をしていると、いつのまにかのどから悲鳴がほとばしっているときがある。絶叫である。自分でびっくりする。車の運転中とか、風呂に入っているときなどがダメだ。だから、いちどネットに入るとそこから離れられなくなる。なにかに心を奪われていないと、平常心が保てない。自分がすでに人間失格になっているような気がして仕方がない。車の運転をしている時に、いきなり身体が硬直してしまうこともある。ハンドルを握っている腕が動かなくなるのだ。3回死にかけた。自傷傾向も顕著だ。幸いまだ手首を切ったりとか、包丁で腹をかっさばいたりはしていないが、その誘惑に負けそうになる時がある。風呂の壁に頭をガンガン打ち付けるぐらいでなんとか押さえている。自死を選ぶのに大した理由など必要ないのかもしれないとも思う。ただ、自死などしなくても、このままでは長くはないかもな、という漠然とした不安のようなものには常につきまとわれている。
だが、結局、店を辞めるのは止めた。それは、俺のことを気遣ってくれる店長や店のみんなの気持ちがうれしかったこともあるし、今日店に遊びに来た、前のバイト先でいっしょに働いていたパートタイマー主婦と話をして、勇気づけられた、ということもあったかもしれない。単純に、今の担当から外してもらって、楽になったからなのかもしれない。よくわからないんだが、もう少しがんばれるかな、という気になった。家に帰って、飯を食いながら久しぶりに笑った。
あったよあった。「おしまいの日」を見つけてしまいましたよ。
昨日はさんざん遠出して、レンタルビデオ屋に寄るたびに挫折感を味わったものだ。目の前が真っ暗になるかと思うような敗北感。やはり地方はダメなのか、という自虐的な感情に打ちのめされていた。
それが、だな。今日の仕事帰りである。ここにはないだろ、と思ってあえて足を運んでいなかった職場近くのショボいビデオ屋に、藁にもすがる思いで入ってみたんである。
あった。
あっさりあった。
不覚。灯台下暗し、という言葉をこんなに実感したことは今まで生きてきてありゃしませんぜ。「なんだよ、てめぇ、そうなら先に言っとけよ」なんていう自分に対する理不尽な怒りが少し興りかけるも、そんなことよりもまず借りるのが先決である。他の人が借りる前に借りてしまわなきゃ、と思いこんだが命懸け、大慌てでその場で入会し、借りた。にんまり。
ま、よく考えたら他に借りる人なんているわきゃねーから、新作なのに借りられてなかったわけだが。そんなことまで気が回らなかった俺の心情はおわかりいただけるだろうか?
家帰って飯食って速攻見るベ、と息巻いて帰宅した俺を待っていたのは、弟夫婦と甥っ子であった。
「おしまいの日」はまだ明日でも見られるからな。甥っ子が「パソコン」としっかり発音できるようになっていたのにびっくりして、パソコンで甥っ子と遊びまくってしまった。
とりあえず甥っ子は新井素子よりもかわいい。
連休なんである。
それにしても、朝一番に店からの電話で叩き起こされたりとか、ちっとも休んでる気はしない。気分転換しないと死んでしまうので、とりあえず昨日に引き続き「おしまいの日」を探すためにレンタルビデオ屋を探しに車で出た。外は大雨が降っていたが、こういう時、車は便利だ。
昨日は2軒のビデオ屋に入って見つからなかったんである。どちらもここいらにしては新作に強い店だったのだが、「おしまいの日」の影も形もねーんである。そもそも充実したレンタルビデオ屋自体が少ないこの小笠・掛川地区である。心当たりと言っても数えるほどしかない。で、今日はもう少し範囲を広げて相良のTSUTAYAとか掛川の奥地まで行ってみた。野を越え、丘を越え、ついでにふた山ほど越えた。今日だけで走行距離はゆうに100Kmを超えてたはずだ。
ない。
それでも、ない。
4軒周って、ない。
同じくテアトル新宿で単館上映された「20世紀ノスタルジア」はどこでも置いてあるのにこの差はなんだ。これが広末涼子と裕木奈江の知名度の差なのか。ヒロスエのがカワイイからかぁ? そうかもしれん、と、ひと夏の間「20世紀ノスタルジア」を見るためだけにテアトル新宿に通いつめた男は思った。それにあちらは昼間の上映、「おしまいの日」はレイトショーと最初から待遇が違っていた。格の違いだ。知名度の劣る映画は地方では接することさえできねーのかい。
まいった。
「おしまいの日」見らんねー。
映画公開時に見てないから、ビデオがレンタルにかかった今が第二の旬なのに。素研ホームページ管理人としては、かなり焦る状況である。どうしようか。ビデオかDVDが一般発売されるのを待って買うしかねーのか。
そこまでするか、と俺の中で囁く声あり。
昨日、大阪城ホールにて行われた「PRIDE11」。
セミファイナルでは、久々のリング登場となる元柔道世界一の小川直也と、K-1 Grand Prixで準優勝したこともある空手家の佐竹雅昭の試合が実現した。「柔道vs空手」という、姿三四郎の時代からファンなら燃え上がらずにはいられない一大テーマだったが、しかし小川が第1ラウンドは相手の土壌である立ち技で真っ向からぶつかった上で、第2ラウンド2分1秒、裸絞めで下した。小川、強し。
試合の内容を知るには、衛星放送を持たない俺としては翌日のスポーツ新聞に頼るしかないわけである。いや、ホントはわざわざ買わなくても、ネットのスポーツ新聞サイトへ行けばそっくりそのまま記事が読めるのだが、紙媒体を買って読む、というのが特に格闘技関係の場合は気分が違うのだよ。日刊スポーツのサイトで確認してみれば、やはり一面は小川の試合である。普段のスポーツ紙一面と言うのは、だいたいにおいて野球ネタ、代表の試合があるときはサッカー、と決まっているんで、たまに格闘技が一面に来るのは、ファンとしては非常に溜飲が下がることなんである。
この衝撃的な試合をば、新聞で堪能するべく車に乗ってサークルKまで行った俺を待っていたのは、さらに衝撃的な事実であった。
「森監督 改革第1弾 進藤←→小川トレード」
何! 小川が野球転向!?
って東スポじゃあるまいし、こんなことがあるはずもなく、これは野球のオリックスの小川のことなんであるが、日刊スポーツの一面にはこのような大見出しが踊っていた。
やられた。
そうなんである。新聞は、版を重ねるごとに記事の内容が差し換えられて行くんである。発行して、地方に発送するとなれば当然輸送の時間がかかる。遠いところに送るのは、早く発行されたもの、つまり版数の浅いものになる。だからその版が発行された時点で試合が終わっていなかったり、記事が間に合わなかったりすれば、それは次の版以降に持ち越しになるんであって、今日の場合は小川の試合の報道がまんまと間に合っていなかったのだった。
記事を見ても、谷津の試合までしか試合結果が載っていない。これが日刊スポーツの6版。東京の最終は15版だから、いかに早く作られたかがわかろうってもんだ。
結局、ここいらにあるコンビニ売りのスポーツ紙で、小川の試合が一面に載っていたのは「スポーツ報知」一紙のみ。小川が一面の新聞を片っ端から買い漁ってやろうと思っていた俺の目論みは、見事にすかされまいらされ候ってしまったわけだ。
鬼藪宙道ではないが、「これが地方か・・・」
がっくりきたが、気をとり直してレンタルビデオ屋に行った。新井素子の小説を裕木奈江主演で映画化した「おしまいの日」がレンタルにかかったってんで、これは見ずばなるまい、っと勇んで乗りこんだわけだ。
新作なんで、レンタル中だったらまずいな、いやでもマイナーな映画だし、大丈夫だろ、とか一人で盛り上がって新作がずらりと並ぶ棚を探したさ。
なかった。
やっぱり、東京でもテアトル新宿単館で、しかもレイトショー公開しかされていない映画なんて、入らねーんかよ。まいったな。
「これが地方か・・・」
地方、ヌルし。
P.S.ちなみに、「ヴィジュアル・バンディッツ」は奇跡的にあったんで、これから見ますよ。>藤岡さん